貸労働の発生について
明治13年頃から器械が増加し、工女の不足を生じ頗る困難を極めていると農商務省も語るように、工女不足は雇主を困惑させていました。
つまり資本の不均等発展によって近隣農村から、特に若年女子労働が資本の要求通りに掻き集められなくなるのです。
そこでより広範な地域から労働力を得るために創出されたのが、製糸・紡績業に多くみられた寄宿舎制度です。
ですから、男子労働の過剰人口を小作制度の中に堆積させたまま農民分解を歪曲したかたちで資本主義が推進されていったのです。
したがって、女子労働の売り手市場にありながら、「家計補助的労賃」でも窮乏した農民にとって緊急に必要な収入であったために、農村子女を資本は苛酷な条件で使用することができたのです。
・・・つまり、原生的労働関係といわれる激烈な労働監獄における農村子女の労働力収奪が行われたのです。
当時の工場数は、明治9(1876)年には器械製糸工場87、釜数5千にすぎませんでした。
しかし、同12年には10人繰以上の器械工場は長野県に358、岐阜県143、山梨県80、全国計では655工場で、21年になると全国の器械工場は1、516、座繰工場409に達し、さらに26年には全国合計3、203工場に及んだのでした。
それだけに賃労働の需要も益々増大していきましたが、当然女子労働に限定されていました。